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核に関する小泉元首相の過ち〜寿都町講演会「日本の歩むべき道」全文

核に関する小泉元首相の過ち〜寿都町講演会「日本の歩むべき道」全文

2020年11月3日、寿都町総合体育館にて小泉純一郎元内閣総理大臣が「日本の歩むべき道」と題した講演会を開催。講演では、総理大臣時代の経験を元に日本の原子力発電に関する歴史や現在の課題などについて解説。その全内容がこちらになります。

只今ご紹介いただきました、小泉純一郎でございます。本日はお招き頂きまして誠にありがとうございます。4時までという時間をいただいております。約90分ですが、原発の問題を中心に日ごろ私が考えていることを申し述べさせていただきまして、何か皆様のご参考になればありがたいと思っております。

人間というのは考え変わるんですよね。政治的問題だけでなくて、自助の色々な問題においても。私は総理大臣在任時は要は資源がない。念々として原発は欠かすことができない大事なものだという話を信じておりました。いわゆる原発論、必要論者の大義名分大きく言って三つありましたね。まず原発は安全だと。コスト、他の電源に比べて一番安い。もう一つ、COを出さないクリーンエネルギー。これが原発推進論者の三大大義名分だったわけです。

それを、おかしいなと思ったのは、総理を2009年に退任いたしましたけれども、2011年3月、福島の地震・津波あの事故とか様子をテレビ新聞で見ておりましてね、日本の原発、安全だったと言ってたのに違うじゃないかと、疑念を持ち出しました。まあ総理の時は必要論者として様々な経産省始め、エネルギーの専門家からも意見を聞いておりましたけれども、原発が日本にとってはなくてはならない大事なものだということは信じていたんですけれども、あの事件以来ですね、2011年からもう9年経ちますね。2009年に引退して時間持てておりましたので、どうもおかしいなと、推進論者の言っていた三大大義名分に疑問を持ち始めてですね。

自分なりに原発関係の本を読みだしまして、なるほどと。事故が起こる前から、原発の導入時点においてすでにかなり数多くの日本にとって原発は危ないぞと、原発を導入してはいけないという論者の本も読みましてね、こういうことかと思い始めて、総理の時、自分なりに勉強しだしてですね、この推進論者の三大大義名分は違うなと、おかしいなと、総理の時は推進論者の話ばかり聞いてて、原発反対論者がいたっていうのを知っていたんですけれども、だいたい反対論者の人たちは、いわゆる左翼というかね、反自民、自民党嫌いな人が多かったです。だからそんな信用しなかったですね。しかしあの事故以来、自分なりに書物を読み、研究勉強した結果、これはやっぱり日本の安全・コスト安い・クリーンエネルギーは間違っていたと。この過ちをどうするか。考えましてね。

論語にある「過ちを改めざる、これを過ちという。過ちを改むるのに憚ること勿れ」という言葉を思い出しましてね。過ちを認めなきゃいかんなと。ですから、あの総理在任中どうしてこういうことをおっしゃらなかったのかと、悔やむばかりではいかんと、過ちをはっきり認めて、これから日本に原発は必要ないと、原発ゼロにして、やっていける素地が日本には十分あるということをわかったもんですから、今講演を頼まれますと、だいたい今日は90分近い時間をいただいておりますので、主に原発を中心に色々考えることをお話し申し上げてみたいと思います。

まず、勉強して分かったことはですね、原発導入したのは、早いのはソ連とアメリカでしたね。第二次世界大戦後、導入してから1979年アメリカ、スリーマイル島で原発事故を起こしました。未だに住むことできませんね。1986年ソ連のチェルノブイリ、ここでまた爆発しました。もう30年経つんですけどね、ソ連時代のチェルノブイリ、原発爆発して放射能が拡散される。去年でしたか、一昨年でしたか、千葉県の野菜農家が自分たちの生産作物、放射能が沈殿してるというのがわかって、どっからきてるんだと。福島から来てるのかと思ったらそうじゃない。もう30年近く前のチェルノブイリの原発の放射能が拡散して、千葉の野菜に沈殿してるんだと新聞出てましたね。もちろん出荷出来なくなった。そういう状況で今原発というのがいかに危険かというのが、多くの国民の皆さんに分かってきた。それまで、スリーマイル・チェルノブイリの事故を参考にして、日本は十分事故対策はしてると。安全対策も、広島・長崎、原爆被害を受けてるから、その放射能には敏感なんだと、そういう状況から事故を参考にして、日本では安全なものを大事に、安全第一ということで日本の原発やってるんだと信じてました。しかし、現実にはそうじゃなかった。

まず、あの事故の後、国会で、与野党全会一致で福島の原発事故検証調査委員会が設立されました。日本学術会議会長であった、黒川清先生、黒川博士が委員長になって、与野党全会一致です。その事故検証委員会の調査報告読みますと、結論だけ申し上げますけれども、黒川委員長提言、調査結果なんて言ったかと、あの福島原発事故の最大の原因は原発の安全性を監視監督する立場の原子力規制委員会と原発会社の立場が逆転していった、原子力規制委員会は原発会社の虜になったと書いてあるんです。

虜ですよ。これ監視監督機能発揮してなかった。原発会社の言いなりになったといっても過言ではない。そういう結論が出てるんですよ。規制委員会が役割を果たしてなかったんです。まあ虜とは随分きつい言葉使ったものですね。国会の与野党全会一致の委員会ですよ。だから原子力規制委員会、嘘を言ったということですよ。だからこそこの黒川委員長の結論は、あの福島の事故は地震津波の天災ではない。人災だと言っています。安全を疎かにした。安全第一ではなかった、収益第一だった。はっきり提言しています。原発会社の捕虜になった。情けないことですよ。あまりこれ新聞報道していませんよ。そういうことが言われているにも関わらずやってきたわけですね。

そして、日本は資源がないので1985年、もんじゅという施設を作ったんですよ。名前は良いですよね。三人寄れば文殊の知恵っていう言葉あるんですよ。福井に、もんじゅという施設を作った。原発の1985年、これ夢の原子炉と言われたんです。しかし、10年かかって1995年、着工から10年かかって完成した。ところがこのもんじゅというのは、原発会社が電源を供給した後、いわゆる核のごみができる。そのごみをもんじゅで化学処理すると、さらに原発の燃料として使えるという夢の原子炉ですよ。捨てるべき核のごみがさらに燃料として使えるというんだから、夢の原子炉ですよね。しかしこれが、完成したんだけれども、すぐ故障で使えなくなった。一昨年だったかな。95年にもうだめだとわかって、改善を専門家が試みていた。なんとか改修しようと。

この10年かかって、永遠のエネルギー、核の、原発のごみをさらに燃料に変えるという夢の原子炉ができなくなっちゃった。文殊の知恵が出てこなかったということで、ようやく原発の専門家が集まった規制委員会で廃炉が決定しました。ダメだったと。10年かかってもその夢の現象ができないのがわかって、去年か一昨年、原子力規制委員会は廃炉、決定いたしました。その間、費用1兆1千億円。全部税金。今これからどうやって廃炉にするか、なかなか手が付けられないほど、難しい問題なんですけれども、維持だけで、今、あのもんじゅ、廃炉しようと検討しているんですけれども、どうやろうか考えてまだ結論が出ていないんですよ。

結論は廃炉にしなきゃいかんということなんですけれども、手順が難しい。だから、1兆1千億円パーですね。維持だけでも一日5千万円かかっているということだと、どうやってこれを処理するのか、大変です。今福島の原発事故起こした原子炉を、これから廃炉にしなきゃならないのでも、何年かかるかわからないんです。日本政府、原発関係者は廃炉に40年かかるといっていますけれども、とてもそれじゃ済まないだろうというのが、最近意見として言われてます、専門家から。40年でも廃炉はできない。

私はその原発でまず、核のごみ、電気を供給した後の核の廃棄物、捨て場所がないという。今産業廃棄物、ビルの解体とか、自動車とか冷蔵庫とか家電製品、たくさん出てくる、産業廃棄物、これね使えなくなった部分を、金属を取り出して新しい資源にする技術ができていますけれども、かといって産業廃棄物は残る。産業廃棄物を処理する、そして新しい使える貴金属は役立てる。そういうのを除いても、廃棄物は残る。その産業廃棄物の会社を作る為には自分でその廃棄物、処分場を作らない限り、産業廃棄物の会社は作れない。都道府県知事は許可を下ろさない。ところが原発。未だに一つも電気を供給した後の核のごみ、処分場ない。

それでよく政府許してるな、再稼働許してるなと呆れているんですけどね。だって福島の事故、どういう状況かわからないから、去年でしたか、除染作業、付近の放射能に汚染された現場だ、その付近は人間が防護服を着て放射能を防ぐ、防護服を着て除染作業してますけれども、あの福島の核燃料が溶けて爆発して下に落ちてるはずだと。ウラン燃料が。これがどういう状況じゃないと取り除けない。

しかし、除染作業は防護服を着ればいいんだけど、あの原子炉の内部にはとっても、除染作業用の防護服着たって、放射能が防げないというので、まず福島の原子炉を廃炉にする為の状況を調べなきゃいかんということで、人間が入れないからロボットを作った。頑丈な。今の専門家の科学技術者を集めて中を、どういうウラン燃料が解けて、どういう状況になっているのかを調べなきゃ廃炉にできない。去年か一昨年、ようやく頑丈なロボットができる。さあ状況どうかと、ロボットを入れて見た。入れてしばらくして、ロボット故障。とても使いものにならない。高度の熱って言うんですか、原子炉の内部、未だにどういう状況か見ることできないです。溶けないロボット未だにできないですよ。

そういう原発の原子炉というのはとても今の技術でコントロールできるような状況じゃない。未だに、故障しないロボット作ろうと研究しているんですけどまだできないんですよ。こういう状況でね、まだやろうとしてるんだからね。再稼働、九電がやってるけどね、これ将来、安全性考えると危なっかしいもんだと。あの時福島の三機の原子炉が爆発して、放射能拡散したんですけれども、4機目の原子炉、どうなるのかと、不幸中の幸いだったんですけど、最悪の状況、4機目の原子炉爆発したらどうなるかという時の最悪の状況を考えてたんですね。民主党政権だったんだけれども。もし仮に4機目の原子炉爆発して放射能拡散したら、半径250キロ圏内の住民は避難しなきゃならないという結果が出てた。幸いにして4機目の原子炉爆発せずに済んだ。半径250キロ、神奈川、東京入っちゃいますよね。そうすると住民約五千万人、一億人いる日本に五千万人どこに避難するんですか。

今でもあの福島の近くに住んでた人は万という人間が帰ってこれないんですよ。こういう状況の中でね、またやろうと。しかも未だに、今までの核のごみの処分場がないというのに、またごみをだそうとしているんですからね。新しい原発設ければごみ出てきますよ。こういう無謀なことをなぜやろうとしているのか。あの原発の事故前、日本には54機あった。2011年に事故、2013年までの約2年は54機あった原発の2機しか動いてなかった。のち2013年から去年か一昨年まで、ゼロ。それでも北海道から九州まで停電一日も出てない。原発なしで。暑い夏も寒い冬も停電なしでやってきたんですよ。原発なしで生活できるということを証明しちゃっているんです。

今、産廃のごみの処分場がどうなるか。世界でたった一つ、フィンランドのオンカロというところで核のごみの処分場が建設されています。もうじき完成する予定ですね。そこにフィンランドは4機原発持っている。その核ごみの処分しなきゃいかんというんで、岩盤で出来ている島に、そのオンカロと言われている処分場を作っているんですよ。オンカロというのはフィンランド語でかくれがとか洞窟という意味のようですけれども、フィンランドは全国が岩盤で出来ている国ですよ。地震なし、火山なし、津波なし、岩盤で出来ている国だから、そういう概観から 岩盤で出来ている島に処分場を作ろうと。4機の原発があるんだけどそこに視察に行ってきました。ヘルシンキ空港から約一時間、ジェット機で沿岸の近くの空港で降りて、そして船をチャーターして、オンカロと言われる核のごみの処分場の島に着いてそこでマイクロバスをチャーターして約400メートル地下に螺旋形の道路ができているんです。見学者が多いというのでね。世界各国から見学が来るようです。

そこで案内されて約400メートルの地下に付いて見学者の為の舞台も設置されているんですね。2キロ四方の広場を二階から眺める場所があるんです。2キロ四方の広場はもうほぼ完成してる。ここに頑丈な鉄の円筒形の筒を作って、核のごみを入れて埋める。そして10万年保管しなきゃいけない。放射能漏れないように。千年万年。そういう処分場をフィンランドは作っているんですよ。4機の原発あって。人口500万人の国。岩盤で出来た国、地震も津波も火山もない国、だからやっているんでしょうけど、それでもこのオンカロは原発2機分のごみしか処分出来ない。あと2機どうするのか、他本土に探そうと思ったんだけれども住民の反対で出来ないんだと言っています。

原発の処分場作っているのはフィンランドだけなんですよね。ほかの国は中間貯蔵施設と言って、どこまで何年間頑丈な中間貯蔵施設にごみを入れて保管するかまだ分かってない。おそらく100年、200年、300年かかるんじゃないかと言っていますよ。頑丈な中間貯蔵施設を作ってもね。ごみが漏れないような。そして2キロ四方の広場で円筒形の筒が積み込まれてるんだけども、もう完成してるじゃないですかと言ったら、いや、壁を見てと言われて。2キロ四方の灰色の壁が所々、黒っぽくなっているんです。シミみたいに。黒いシミが壁の所に染み込んでいるんです。この黒いシミなんですかっと言ったら、あれは水分なんだと。今シミで済んでるけど湿気なんだと。

これが100年、200年、1000年経ってもし水分になってここの処分場に水が埋まってきたら埋め込んだ核のごみも、その水によって漏れるんじゃないかという審査が残っている。400メートル地下ですよ、岩盤で出来ているんですよ。それでも黒いシミが水分じゃないかという審査がある。このシミが水分として戻ってこないかと。日本だったらおそらく400メートル地下掘ったら、水分どころじゃない、温泉が出てくるかもしれないね。こんな処分場日本が作ろうとしても住民の反対もあるしね、作ったとしてもフィンランドは4機ですけどね、54機使っちゃってどこに処分場作ったらいいか。産廃業者は自分で処分場作らない限り、産廃の会社を作ることが出来ない。

日本は今どこも原発の処分場ない。政府は原発進めてるけどね。あてがないのです。こういう状況だからもう増やしちゃいけない、再稼働しちゃいけない、ゼロに舵を切るべきだと私は言っているんだけども、まだ原発推進論者の話を聞いて、再稼働させてますよね。再稼働すればまたごみが増えるんです。原発ゼロにする方向に舵を切らせなきゃいかんということでこれからも続けていきたいんですけれども、ともかくこれはねピンチなんです。よくピンチはチャンスというけれども、福島の原発事故はピンチととらえて、日本は石炭火力もやめようとしてる、同時に原発もやめなきゃいかんと。両方は無理だよという人もいますけれども、両方やめなきゃいかんと思っているんです。不可能じゃないとおもっているんですね。現にあの事故から2年後、ゼロでやってきたんですから。

今世界的に石炭火力もやめようということになってます。そこで大事なのは自然的ですよ。太陽、風力。今まで太陽光なんて太陽陰ったらもうダメだよ、風がやんだらダメだよと馬鹿にされていました。しかし最近蓄電技術が発達している。世界各国が太陽光と風力を伸ばしていこうと。蓄電技術もどんどん発達している。これは政府が本気でやりだせば出来るし、やっていかなきゃならない問題だと思っているんです。

最近ソーラーシェアリングという言葉なんだと思ってね、それをやっている千葉県を先日視察したんです。千葉県の農家がソーラーシェアリングを考え出してやっている。作物を生育させながら太陽の光で電気を発電してその電気を売ろうと。そうすると作物の収入と電力の収入で両方とも利益が上がる。農家が発明している。そうすると、農家ですから畑です。3メートルくらいの支え、幅も3メートルくらいですか、3メートルくらいの支柱を畑全体に立ててその上に太陽光発電の設備を作ってるわけです。だから作物の利益と売電、太陽光、一農家が発明してやっているんですよ。今のところ、わずかな地域です。作物。

しかし、将来、田んぼにやればね、全国の電源はこのソーラーシェアリングでできる。田んぼの上で。田んぼたくさんありますからね。山を削ってもできるけれども、山を削ると環境破壊になる批判がでるから、そんな山は削れない。しかし、畑だったら、作物もできるし、太陽光の発電もできるからいいんだと。農家曰く、全部直射日光受けるばかりよりも、ソーラーシェアリングで太陽光の施設をやると日陰ができる、全部密閉じゃありませんから。日影ができて、太陽光が所々入ってくるわけです。そうすると作物の生育が、直射日光受けるばかりより良いというんですね。

そういう技術を千葉県の農家が発明してやっているんですよ。ソーラーシェアリング。これを全国に普及していけば、ソーラーシェアリングの施設だけで日本の電源は十分やっていけますよと言っています。夢のある事業ですよ。こういう新しい、自然に無限と言っていいほどある、太陽光、風力、水力もそうですね、そういうのを利用してやっていけば、日本は原発ゼロでも、石炭ゼロでも十分自然の恵みを受けて生活できるような状況が必ずできると思うんです。まさにこの原発の事故はピンチをチャンスに変えるきっかけだと受け止めるべきだと、そういう考えを強くしました。

日本というのは戦後、第二次世界大戦、広島・長崎、原爆落とされて、300万人以上の国民が命を落とした、悲惨な戦争を経験しました。しかし不幸中の幸いといいますか、負けた相手がアメリカだった。今色んな書物が出てますけどね、五百旗頭先生が出した本を読みますと、アメリカは第二次世界大戦中、昭和18年頃、もう勝つのを分かっている、日本を破ったあとどうやって日本を再建させるかということを考えたという。よくそんな国と戦争したなと。

作家の猪瀬直樹は、まだ都知事になる前に、昭和16年夏の敗戦という本を出している。なんで昭和16年夏の敗戦なんだと。敗戦は20年8月15日ではないかと。なんで昭和20年夏の敗戦じゃなく、昭和16年夏の敗戦なのか。読んでみたらわかった。戦前、昭和10年代、アメリカと関係が悪くなってきた。日本は明治の時が日清戦争に勝利した、日露戦争にも勝利した。ちょっと自信過剰になってね、中国の領土めぐってアメリカと衝突してきた。そこで日本としてもアメリカとの戦争始まったらどうなるのか。研究所、シンクタンクつくったんですね、宣伝の。日本の政府は。そういうものですよ。昭和10年代。アメリカとおかしくなってきた。友好関係も良いアメリカともし戦争になったらどうなるのか。30人くらい有識者集めて報告してくれる。昭和16年1月から数か月かけて。8月に結果を閣議にかけているんです。結論だけ言いますけれども、その有識者達が集まって、昭和16年、数か月かけて結論を閣議で8月報告する。

なんと報告していたか。もし今、昭和16年8月アメリカと戦争していたら、必ず負けると報告出していた。しかし当時の内閣政府は机上の空論だと破棄した。そして12月8日真珠湾攻撃、完敗。その通りになった。専門家はわかっていた。無謀な戦争するなと。だから政治というのは大事ですね。ここで止めろと言えばあの悲惨な戦争しないで済んだ。机上の空論で廃棄して、大和魂があるって言って突っ込んじゃった。大和魂があったて、武器も経済力もないのに無謀な戦争しちゃった。犠牲になった国民は悲惨ですよね。しかし日本人の優れたところはですね、くじけなかったんですね。しかも不幸中の幸いというか戦った相手がアメリカだったから。アメリカは戦っているときから、勝利をした後どうやったら日本を再建するかを考えながら戦争していたというんだから、他の国と戦争しなくて良かったですよ。

だから日本は敗れた相手が寛容だった。勝利者が寛容だった。アメリカが勝利を治めた後も日本は敗戦国だけども奴隷にしないで、どうやって日本を再建するかということで援助をしました。不幸中の幸いと言っていいかもしれません。もし違う国と戦ったらあのような寛大な措置はしなかったでしょうね。そして、戦後日本がアメリカの支援を受けながら発展してきた。敗れましたけれども、相手が日本を潰すというんじゃなくて再建しようという国だったからね。日本の優れた点と言いますか、変わり身の早いといいますか、戦前はアメリカイギリス鬼畜生と言った。鬼畜米英、終わったらアメリカさまさまでしょ。しかし考えてみれば、最大の敵を最大の味方にしちゃったんですから。そこで日本は今日まで、アメリカ、世界、もう二度と戦争はしちゃいけない、悲惨な戦争は絶対してはいけない。そういう決意を固めて、しかも敗れた相手のアメリカが寛大だったからこそ、支援を受けて今日まで発展してきた。まさにピンチをチャンスに変えることができた。これからあの敗戦を契機に、日本は二つの大きな目標を立てた。

まず一つ、二度と戦争をしてはいけない。もう一つ、当時、人生50年だった。長生きできる社会を作ろう。当時は戦後、子どもの頃はよく、お米と麦と混じった中に、さつまいもが入ってましたよ。戦争終わっても、私が小学校の頃ですけど、ごはんというのはさつまいもが混じっているごはんでしたよね。麦飯もあったけどね。当時は栄養失調で病気になったり、亡くなったりする人がたくさんいました。横須賀に結核患者専門の病棟がありました。その結核患者専門の院長先生と親しかったので大人になってからよく話を聞いていたんですけど、当時は結核専門の病院横須賀は持っていた。栄養失調だから結核患者が多かった。結核患者というのは他の人からみれば美味しいものをたくさん食べて贅沢で良いなと羨ましがられたほどなんだ。結核患者というのは栄養取んなきゃいかんと。だから栄養取れる。他の人たちは食べるものには困っていたころですよね。

だから栄養が足りなくて病気になっていたのが、今栄養取りすぎて病気になる人が多くなっている。結構立ち直ってきたんですね日本は。アメリカも寛大だった。日本の国民も挫けずに頑張ってきたから今日があるんですけれども、それだけに敗戦の戦争の過ちを反省して二度と戦争はしない。長生きを出来る国。長生きができるためにはまずは食物が全国民に行き渡らなきゃいけない。そして、病気になったら診てくれるお医者さんをたくさん作らなきゃいけない。それを進めてきて結果を出しているんですよね。人生50年じゃないですよ。人生100年時代になってきた。むしろ栄養あまり取りすぎるなという。バランスの取れた食生活が大事だと。こういうことを考えるとね、戦後やはりピンチをチャンスにすることができた。戦った相手がアメリカだった。日本を再建しようということを考えもしながら戦争を始めてた。よくそういう無謀な戦争、愚かな戦争しちゃったなと思うんですけれども、ともかく敗戦を契機に日本は考えを改めた。もう二度と戦争はしてはいけないということと、長生きできる社会を作ろうという目標を達したんです。戦後七十年。たいしたもんですよね。今世界でも有数の長生きできる国ですよ。

私が初めて厚生大臣に就任したのは昭和63年暮れ。昭和64年1月7日昭和天皇崩御。1月8日から平成になった。平成元年から厚生大臣を続けてきたわけですが、その時、まず厚生大臣室入って聞かれたのが、大臣、今日本の100歳以上、何人いるかご存じですかと聞かれた。100人くらいいるかなと言った。とっさに聞かれたから。ダメですよちゃんと頭に入れておいてください、平成元年、100歳以上、3000人を超えましたと。そんなにいるのかとびっくりした。今年、100歳以上、8万人超えたんです。8万ですよ。長生き出来る国になったんですよ。人生50年じゃない。100歳以上が8万人ということはちゃんと正しい食生活していれば夢じゃないということですよね。30年でね、3千人から8万人まで増えてきた。

実際、長生きできる国になったなと。問題は、長生きすればいいってもんじゃないっていう声があるから、どうせ長生きしたんなら元気に長生きしようということで色々な教育活動が起こっている。まずお医者さんや薬にかかるよりも、日頃からバランスの取れた食事をしなさい、適度な運動をしなさい、十分な休養をとりなさい。これが健康三原則だとだんだんわかってきて、元気に長生きする人が増えてきましたね。これは喜ばしいことだと思ってます。

日本で戦後一番の危機といったら、経済危機、石油ショックでしょうね。それは昭和48年、イスラエルとアラブが戦争を起こした。中東戦争を契機にして、石油ショックというのが起こった。あの中東戦争が起こる前、油を日本が輸入していたんだけれども1バレルが2ドル前後。1バレルはリットルに直すと、150リットルから160リットルある。油の単位使いますね。それが、2ドル前後が一気に10ドル、11ドルに跳ね上がった。日本はほとんど油輸入してますから、これで狂乱物価というのが出てきたんです。油が高騰したために。1バレル2ドルの値段が10ドル11ドル出たんだけど、こんなものじゃ済まない、いずれ10ドル50ドルの時代が出てくると。

当時、堺屋太一さんがそんなものじゃ済まないだろうと。10ドル20ドル100ドル時代が来るかもしれないと言っていましたけれども、現実に5~6年前、一時、1バレル150ドルの時代きましたね。ゴールデンウイークです。しかしここから変わったのが、産油国が、あの中東戦争の時、イスラエルはアラブに大勝利を治めた。アラブにとっては悔しいでしょう。油を持っている国が貧しくて、油を使っている国が豊かになっている。けしからんといって油を武器に値段を上げて、そういう値段になってきた。そこで石油を上げてアラブの諸国はだんだん油を上げれば儲かるというのがわかってきたんだけれども、それにも限度がある。

今、一時、100ドル150ドルつけたのが最近40ドル前後に値段下がっている。なぜか。アメリカ始め、シェールガスとか、油に代わる自然エネルギーもだいだいエネルギーも、そんなに高い値段だったら、シェールガスもあるぞと。アメリカなんかもっと掘ればどんどん出るんだと。投資しても十分、投資に見合った利益が出るということでやり始めて、もう産油国は油売れなくなった。今40ドル前後で低迷しているでしょう。もっと高くすればもっとシェールガスが売れる。他のエネルギーができるから、儲けにならないというのがわかってきたから、なかなか油の値段も上げられなくなってきた。

そこでこれからできるのは自然エネルギーですよ。どこの国だって太陽とか風力とか出てくるんです。日本は特に、太陽もある風力もある水力もある。無限と言っていいエネルギー抱えているわけです。そういう国が出てきたら、油も売れなくなっちゃう。産油国もやはり考えなきゃいけない。上げればいいってもんじゃないというのがわかってきた。こういう時代の変化に、日本というのは上手く対応してきた国ですね。敗れても、敗れた相手を味方にしてきた。そして様々な活躍を全世界で日本人は発揮している。これからももう二度と戦争はしない。各国と仲良くやっていこうという方向を持って様々な分野で世界に進出している人は多い。今、新しい時代に入ってかなり面白い兆候が出ていますね。常識というのはね、変わっていくんだなと。まあ、30年ぐらい前までは外国人は、アメリカ人やヨーロッパ人はね、肉が好きなんだ、魚はあんまり食べないよと、ましてね、生の魚、寿司なんか食うわけがないよと。

これは日本人独特の食物でね、寿司は無理だと言われたのが、今全世界アフリカも含めて、アフリカ・ヨーロッパ・南米・北米・アジア、日本食品の中で一番人気のある食品、お寿司になっちゃったんです。魚は食べない、生の魚の寿司なんか食べないと言われていたのが、すきやきとか焼き鳥とかじゃない、世界で一番人気のある日本食品は寿司になった。生のあの寿司の旨さを覚えちゃう。最近ね私前ですけど寿司屋行ったらね、面白い話したなぁ。外国人が来るとね、トロの塊を隠すんです。塊を少し。なんでなのか。寿司屋でトロをくれと言われて「ありません」って、これは寿司屋の恥だから。常連のためにとっておくわけ。

外国人が4,5人で来た場合、外国人はトロの旨さをわかっちゃったから、トロばっかり頼むんです。トロくれ、トロくれ、トロくれって、外国人がよく食べるんだ。で、この、見せてね、ないとは言えないから、日本人の常連のためにトロは隠して「もうありません」と。そういう時代ですよ。寿司が世界で一番人気がある。トロだけじゃない、いろんな生の魚を平気で食べるようになったんですね。こういう時代、変化といいますかね、あの旨い日本の食品、日本の衛生観念を学ばなきゃいかんというのを外国人もわかってきたんですね。

で、イギリスのサッチャー女史が政権をとったとき、日本にたいしてこういう事を言っていましたね。「日本、焼酎の好きな国民。ウイスキー、焼酎、同じ蒸留酒だ。」と。造り方そうらしいんですね。ウイスキーも蒸留酒、焼酎も蒸留酒だと。「造り方は同じなのに、なぜ焼酎だけの税金が安くて、ウイスキーの税金は高いのか。同じにしろ。」と言ってきた。よく調べてるんですね、やっぱり首相も。日本の輸入量が少ないと、貿易の、イギリスに比べると。同じにはできないと。焼酎はもう大衆酒でね、ウイスキーは高級酒なんです。裕福な人の飲み物だって言っても承知しないから、仕方がないから焼酎の税金を上げて、ウイスキーの値段を下げて。日本の焼酎業界、鹿児島の、怒ってた。しかし日本人のすごいところはね、その焼酎(の税金を)あげて、ウイスキーを下げて、壊滅的状況を受ける、そうじゃなくなっている。知恵を働かせて、焼酎は今、高級品の焼酎がでてきましたよね。焼酎が安いものじゃなくなってきた。もちろん安い焼酎もありますよ。芋焼酎、麦焼酎、焼酎もウイスキーより高い焼酎が出てきた。これが売れてる。減るどころか増えてきた。日本人のこの技術力というか、様々ないいものを出そうという能力というのは大したもんだなあと。それで日本人もウイスキーの良さがわかってきたし、外国人にも焼酎の良さがわかってきた。

様々な分野で世界に通用する、食品にしても工業製品にしても、日本人は世界で高い評価を受けるようになった。こういうことは、日本人の変化に対応する能力が優れている、また多くの国民、企業がね、どうやって世界に通用する製品を出すか。

自動車だって最初はね、日本の自動車はボロだって言われていたんです。しかしトヨタ、日産…奮起して、日本の車は安かろう悪かろうだって言われていたのを、これじゃいかんということで懸命に努力して、いまやアメリカでも日本車は随分売れているような状況になっちゃった。自動車の本場アメリカで日本の自動車は評価が高い。同じ1リットルの油でアメリカ車よりも長く走るんです。故障もしない、故障しても日本の車はすぐ直しに来てくれる。そういう評価で日本の車はアメリカでもヨーロッパでも売れるようになった。そのような世界を目指して努力している日本の企業、大企業だけじゃない、中小企業も様々な苦労をしながら、日本の良さを世界に広げて、それもまたアメリカをはじめヨーロッパ各国に日本のよさをどんどん世界に広げていってくれる。これは素晴らしいことだと思っております。

政治家の中でね、この人の記録は破ることができないという人が一人だけいます。誰かと。戦前戦後を通じてね、それは尾崎行雄という人。名前聞いたことあるでしょ。国会の脇にね、政治資料館があります、最初尾崎記念館という名前をつけたんだけども、今憲政記念館って名前が変わっています。それは尾崎行雄、尾崎咢堂(がくどう)という俳号、号を持っていたんですけど、この尾崎行雄、咢堂はね、第一回目の明治の選挙制度ができて初めての帝国議会選挙に33歳で立候補して当選、以来、明治大正昭和、昭和26年に94歳で亡くなったんですけども、連続当選25回。すごいですね。私12回当選で引退ですから。あと13回選挙をやれっていわれてもできませんよ。連続当選25回、衆議院勤続60年。この記録を破った人はいないです。これを尾崎行雄氏、憲政の神様と言われている、議会政治の父ともいわれた尾崎行雄氏ね。この尾崎行雄氏がね、亡くなった年に揮毫した言葉が今憲政記念館に額で飾られています。なんと書いたか。

「人生の本舞台は常に将来に在り」94歳、亡くなる年ですよ。亡くなった年に「人生の本舞台は常に将来に在り」ですよ。もうだいたい90過ぎたらどうでもいいと思うでしょう、普通の人は。それが違うんだね、94歳でも本舞台、自分が活躍する場がこれから先だ。大したもんですよ。それだけ気力のある人だからね、この94歳まで連続当選25回、衆議院勤続60年。私は12回、37年で引退しましたけどね、それでも結構長いほうなんですよ。上には上がいるなと思いますよ。この憲政の神様、こういう人が人生の本舞台は常に将来にあり、亡くなっても将来のことを考えている、大したもんだなと。

それとね、いい言葉を残している江戸時代の学者がいるんですよ。佐藤一斎っていう人ね、これは国学者、この人はいい言葉をいっている、私が気に入っている言葉ね、披露したいと思うんですけど、いろんな言葉を残しているんだけども、私の気に入っている佐藤一斎の言葉、それはまず「少くして学べば則ち壮にして為すこと有り。」壮というのは壮年、壮年になって有為と書く、漢文だからね。有為。有為な人材のことです。若くして学べは壮にして有為。壮年になって、大人になって有為な人材になる。

「壮にして学べば則ち老いて衰えず。」大人になって、壮にして学べば老いて衰えず。壮年になっても学んでいけば、老いても、年取っても衰えない。さらに、この先の言葉もまた奮っていいんですね。

「老いて学べば則ち死して朽ちず。」年取って学べば、死んでも腐らない。だいたい腐りますよ、人間。肉体は腐るけれども、精神は腐らない。そうでしょ我々、何百年前に死んだ人の言葉が残っている。それを見て奮起してろ。学ぶことが出来る。壮にして学べば 則ち老いて衰えず。老いて学べば則ち死して朽ちず。年取っても腐らない。学ぶことに終わりはないってことですね。学ぶことについて限界はない。常に向上心を持って、精神的にも肉体的にも少しでも今の能力を高めていこうという気力を持って進んでいくべきだと、そういう言葉だと受け止めています。

もう私もそろそろ、老いて学べば、ってことになっているけどね、この気持は忘れちゃいかんなと。常に学ぶ気持ち。人生我以外皆我師(人生我以外みな師なり)。師匠さんだと。吉川英治が残していますよね。人生、我以外みなお師匠さんだと。昔から人は人によって磨かれる、学問書物だけじゃない、人間の付き合いによっても、向上心をもってやっていけば、精神も肉体も向上していく。こういうことは忘れずにね、これからやっぱり、少しでも元気に頑張っているようにしていかなきゃいけないなと思っております。どうか皆さん、まだまだ尾崎行雄氏に比べれば若い人ばっかりですよ。人生100年時代、まさに50年から100年時代にきたわけですから、これからますます健康に気をつけて、あらゆる面で頑張っていただきたいと思います。

長時間ご清聴ありがとうございます。

町の主要産業の将来や、町民、近隣町村への影響を考慮せず一方的に進められている寿都町の「核のごみ(原発から出る高レベル放射性廃棄物)」の最終処分場の文献調査問題。小泉元首相が同講演会で語っていた”安全第一より収益第一”という役人発想は未だ変わっていないのかもしれない。

花束を渡す地元の子どもたち

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